なぜ人は「悪口」を言うのが楽しくてしかたないのか?【福田和也】
福田和也の対話術
■なぜ悪口はそんなに楽しいものなのか?
では一体、何がそんなに楽しいのでしょうか。
もちろん好意をもっていない、もしくは敵意を抱いている相手にたいして、攻撃を加える面白さはあると思います。
でも、これは逆説的に聞こえるかもしれませんが、そこに過度の攻撃性が含まれている場合、悪口はさほどの快楽をもたらしません。むしろ実際的な側面、つまり悪口の暴力性や、反発といったことが気がかりになる。娯楽とみなすべきものではなくなってしまう。悪口のもたらす快楽と、攻撃性は、一致しないと考えた方がいいようにすら思えます。
私たちは、時に、さほど嫌っているわけではない人のことを、あるいはどちらかというと、好きであったり、あるいは世話になっていて、とてもそんなことを云えた義理ではない人の悪口を云ったりします。
そこが悪口の面白いところであり、また怖いところでもあります。
なぜ人は、さほどの敵意を抱いていない相手の悪口を云ってしまうのか。
それは悪口のなかに、きわめて知的な側面があるからですね。つまり、ある人のなかにある、滑稽であったり、奇怪な部分を発見した時に、それを指摘し、表現したいという欲望を抑えることが非常に難しいのです。
そういう意味では、悪口には一種の批評精神が欠かせません。三国時代の高名な文人陳琳は、また悪口の天才でもありました。一介の文人ながら魏の曹操を向こうに回して、その祖父が宦官(かんがん)であるという出生からその後の渡世までを徹底的に罵(ののし)り、曹操の面目を天下に失わせた故事は有名です。梟雄(きょうゆう)でありながら、深い文人趣味をもっていた曹操は、後に捉えた陳琳を罰することなく許しましたが、それは罵られた本人ですら認めざるを得なかったほど陳琳の悪口の文学性、芸術性が高かったためでしょう。
悪口の芸術性ということで云えば、何か漠然としたおかしさや不具合を見つけた時に、それを的確に表現した時の気持ちよさというのは、なかなかのもので、それを披露したいという欲求はきわめて強いものです。
(『福田和也コレクション1:本を読む、乱世を生きる』から本文一部抜粋)